ショパンについて 「英雄」

「英雄」 ポロネーズ op.53

ショパンの曲についての感想を初めて扱うに相応しい、とても思い入れのある曲です。
ポリーニの演奏を聴きながら書いておりますので、他の奏者による演奏ではまた少し違ったようにも受け取られるでしょう。
部分ごとの紹介に用いている演奏時間はこのポリーニの演奏によるものです。

さて、私がこの曲の全体から受ける印象というものを一言で述べるならば「英雄の凱旋」となります。
とは言え、この「英雄」という副題はショパン本人によってつけられたものではないというのが通説になっております。
果たしてショパンは何を想ってこの曲を書き上げたのでしょうか。

最初の30秒ほどのいわゆる序奏部分では、少し薄暗く長い廊下、それもあるいは踊り場が複数用意された階段を勇ましく駆け上がる様が思い浮かびます。
序奏の終わりでは重厚な扉を押しのけ、まばゆい光と、続く賛辞への一瞬の緊張がもたらされているように感じられます。

続いて現れる主題は、鳴りやまぬ喝采、賛辞、鼓笛隊、方々から放たれる色とりどり様々な花弁といったものを一同に受けている様に感じられます。
特に1分目付近(29小節目)からの部分では宙を舞い散る花びら、その中を進み全身で受け止める英雄、 及び風圧により不規則な軌跡を強いられ落ち行く花びらのように思われます。

主題がもう一度繰り返された後には、少し単調あるいは優雅なリズムが主題に練りこまれた旋律が訪れます。
どうもこの部分では、パレードのような凱旋という現実を離れつつあるような、 過去の回想へ誘われつつも、英雄としてその惜しみない賛辞への対応を果たしているように感じられます。

3分を超え転調する部分、楽譜で言えば81小節目からの部分は沈みゆくように感じられます。
私にはこの部分で現実を離れ、過去をさまよい始めたように思われます。
再び120小節目で転調するまで低音がひっきりなしに鳴っていますが、この部分ではまだ現在進行形で受けている賛辞があたかも騒音のごとく扱われているようで、 とはいえ4分に差し掛かるあたりでは一度現実への対応を余儀なくされているように感じ取れます。
この部分では過去に起きた何かしら少し辛い体験を、しかし時の経過により美しく彩られ回想しているように思われます。

4分半が過ぎ曲も終わりに近づいてまいりました。
ここからの1分半ほどは3度目の主題で覗かせた優雅なリズムが支配し、外界の喧噪からはシャットアウトされ閉ざされた世界のごとく感じられます。
5分10秒辺りで一度、外界からの干渉を覗かせる部分もありますが、それもまた薄れ再び穏やかな幸せを噛みしめているように思われます。
あえて述べるならば、家で家族とくつろいでいる時間といったところでしょうか。そして再度現実へとフェードインしていきます。

最後にはもう一度主題が、変化を伴い演奏されます。
冒頭の主題にも言えることなのですが、野放図に明るく、煌びやかというわけでなく、どこか情緒的な憂い、多少の苦味、精神的な疲労を含んでいるように思われます。
全体としては先にも述べたとおり「英雄の凱旋」がイメージされるのですが、喜劇というわけでなく、一歩間違えれば悲劇としても描かれてしまいそうな主人公像に思えて仕方ありません。
ショパン本人のパーソナリティと結びつけ、「ポーランドの栄光」のように片づけてしまうのは簡単ですが、どうもそれにしては悲劇の香りが漂いすぎているように私は感じます。

「英雄」として描かれるためにはやはりその人格も焦点になることでしょう。
ただ成功を積み重ねた者がそう呼ばれることはまず考えられません。
挫折を乗り越えようやくつかんだ光、しかしその一面的に照らされる部分は決して全体ではなく、他者からの喜びは表面までしか届かない。
外から容易に窺える「華やかな英雄」としての側面だけでなく、理解を拒む内面も有した「孤独な英雄」としての側面までもがこの曲にはあるように思われます。

初めに述べたように、「英雄」という副題は本人によるものではないため、ショパンが何を想って、どのような心境で、何を伝えたくて、この曲を書き上げたのかは正確にはわかりません。
副題により誘導されたイメージに支配されているのも事実ではあるのでしょうが、それでも空想上の「完璧な英雄」ではなく、どこか現実味を帯びた「人間である英雄」を感じさせる曲だと私は思います。
それゆえ、この曲を聴き終えることで現実的な次の一歩を踏み出すことができるようにも思われるのでしょう。ショパンからの全力の励ましとして、とても好きな曲です。

初稿 2014/02/08